タクシーが僕の住んでいるアバルトマンに到着し、車内ですっかり眠り込んでしまったユウキを起こすと、何とか中へと連れ込んだが、さて彼をどこに寝かせておくか。
ケイを待つのに主寝室のベッドの上に寝かせておくというのは露骨すぎるだろう。
と言ってゲストルームに寝かせるのではつまらない。やはりここはケイの反応を見るためにもあの寝椅子の上に連れていくしかないだろう。
今までここに連れてきた者たちと比べると見劣りしそうな青年だというのが残念だったが、まあ仕方ない。
僕は悠季を寝椅子に座らせたが、彼はすっかり眠りこんでしまって、そのままずるずると横になってしまった。
やれやれ。
彼の警戒心のなさは、本当に危うすぎる。無防備な青年を恋人としているケイの苦労がしのばれるというものだ。
「んー・・・・・」
ユウキがネクタイの結び目に手をかけて緩めていた。
息苦しいのだろうか。ネクタイを外すのを手伝ってやって、ついでにシャツのボタンも3つばかり外してやった。
「そうそう、この無粋な眼鏡も見ていたくはないな」
黒ぶちの無骨な眼鏡を彼の顔から引き抜き、テーブルの上に置いた。
「これでいい・・・・・」
言葉は途中で消えた。
思いもかけない彼の変貌に、呆然と立ち尽くしてしまっていたのだ。
冴えなくて野暮ったいと思っていた青年は、眼鏡を取ったとたんに優美な美貌をあらわにしていた。
柔らかそうな髪が少し俯いた彼の目元に散りかかっていた。長いまつげが影を落としている目元は酔いに薄赤く染まっている。ふっくらとした赤い唇にはかすかな微笑みが浮かんでいた。
眠っている彼は、無垢で誰も触れた事がないように見えた。いや、誰も手を出してはいけないような清らかさが。
これはどこかで見た事がある気がする。そんな気がした。
そうだ、これは僕が若い頃に初めて見た写真集で衝撃を受けた東洋の仏像に似ているではないか。
百済、高句麗、奈良、飛鳥・・・・・。
古拙な微笑みをたたえた仏像たち。
写真集を見てあこがれた仏像たちに初めて出会えた時には、その静謐さに心打たれたものだった。
その造詣が生きた姿でここに、僕の部屋に降臨しているのだ!
だがしかし、そんなはずはない。ここにいる青年はごく普通の生身の人間のはず、ケイの恋人なのだから。
ケイに触れられて抱かれて、官能に溺れているはずなのだから!
そこに思い至ったとき、今度は彼の寝姿が違ったものに見えてきた。
まぶたのうっすらと青いクマはただの疲労のせいではないだろうと思わせる。
鎖骨にわだかまる薄暗い影をたたえたくぼみは、とろりとした闇が溜まっているように見え、口づけて舐めてみればおそらく甘いのではないだろうか。
わずかに開いた唇からこぼれる吐息は、官能的で切ない夜を思い返しているようだ。ふとひそめた眉のあたりにぞくりとした艶が出た。
何と言う生きものなのだろう。
二律背反する魅力をもつ、彼。
僕はふらふらと寝椅子に近づくと、神聖な巫子に仕える神官のように、彼の前にひざまずき、投げ出されていた手にキスをした。
そっと髪に触れ、ほほを触り、そして、唇にうやうやしくキスを捧げた。
甘く震えるような喜びが湧いてきた。
ケイが彼を溺愛して、以前の情人たちには目もくれなくなったという理由がよくわかった気がした。こんな存在を見つけ手に入れたのなら、もう他の紛い物では満足できなくなっただろうから。
彼とどんな夜を過ごしているのだろうか。彼に触れたらどんなふうに啼く?どれほど甘い肌を、そして深い快楽を得られるのか・・・・・。
僕も味わってみたい・・・・・!
彼を抱いたとき、どれほどの歓喜を感じる事が出来るだろうか。
触れるだけのキスからもっと深いキスへ。
ぐっすりと眠っているユウキは、僕をケイと間違えているのか、意外にも素直に僕のキスに応えてくれたのが愉しかった。
ユウキを起こして口説こうか。それともこのまま彼を手に入れようか。
迷いながら首筋から胸元に手をすべらせていくと、そのなめらかさに驚嘆した。
東洋人の肌は、男性でも西洋人に比べて格段に肌のきめが違うが、彼の肌は更に手に吸いつくようで感激させられた。
もっと味わいたいと、シャツのボタンを外そうと手を掛けた時だった。
突然けたたましいチャイムが夜の静けさを破って家中に鳴り響き続けている。
客は止むことなく押し続けているようだ。
どうやら僕の伝言を聞いたケイが、ここに駆けつけてきたものらしい。
やれやれ、これまでか。
ケイに伝言を置いてきた事を半ば後悔しながら盛大なため息をつくと、名残惜しくユウキに一瞥を与えると、入口へと向かった。
「僕の悠季を返していただきましょう」
ドアを開けると、息を切らし血相を変えたケイが僕を睨みつけていた。
どんな時でもクールで何事にも動じず、どんな相手にも執着しなかった彼が、今は僕を殺しそうな顔つきをしていた。
「やあ、ケイ。久しぶりだね。ユウキなら奥で眠っているけど」
「失敬」
ケイは言葉を途中でさえぎると、礼儀など放り出し僕を押しのけて室内へと入ってきた。
そのまま急ぎ足で進んでいき、赤い寝椅子の上に横たわっているユウキの姿を見つけて思いきり顔をしかめてみせた。
「相変わらず悪趣味ですね。この寝椅子を使った者のコレクションに、今度は悠季を加えようとでも考えましたか?それとも僕への嫌がらせですかね。軽蔑しますよ」
「おお、とんでもない。この部屋に彼を連れてきたのはほんの偶然の産物だよ」
ケイは僕がユウキを酔い潰してここへ連れてきたと思っていたらしい。しかし、多少の作為と逸脱はあったにしろ、大本で僕に責任のない行動をなじられては困る。
もう少し僕に時間が与えられていたらまた事態は違っていただろうが、今はまだ善意の範囲であり、キスしたことは、まあ・・・・・よい行いをした褒美というものだろう。
僕はケイにパーティーでのユウキの災難を語り、彼の無警戒ぶりを逆に非難してやった。
まさか僕から厳しい説教をくらうとは思っていなかったのだろう。ケイは鼻白んだ顔で僕の叱責を聞いていた。
「それは・・・・・悠季を助けて下さって、ありがとうございます。確かに悠季の身が危うかった事はよくわかりました。
これは僕のミスです。二度とこんな事が起こらないようにします」
まるで自分に宣言するかのように、きっぱりと言い切った。
「こういう世慣れていない魅力的な青年を恋人にしているのでは、気が抜けないだろうね」
僕がからかい気味に言うと、ケイはほろ苦く笑って言った。
「僕が『君は魅力的ですから、狙われる心配があります。用心してください』といつも口を酸っぱくして言っているのですが信じてくれないのですよ。悠季は自分をごく平凡で冴えない男だと信じ込んでいるから、今日のようなことが起きるわけです。
それにしても、そのユウキを狙ったという連中を追い払ったついでに、今度はあなたが『送り狼』になるつもりがなかったとは思えないのですが?」
ケイの鋭い指摘に対して、僕は肩をすくめてみせた。
「さあ、どうかな。もう少し邪魔をしないでくれていればどうなったかは分からないがね」
ユウキの魅力に気づいたのはつい先ほどのことだったのだが、気がついたからには自分の望むままに行動するのがいつもの僕のやり方だ。
ちょっとした気まぐれから彼を助けてここに連れてきたことなどあっさりと忘れるつもりだった。ということまで言うこともないだろう。
「ごらん!こんなすばらしい光景は、めったに見られるものではない。誰もが触れたくなるに違いないではないか!」
僕はソファーの上に横たわっている悠季の方へ手を振ってみせた。
「ユウキが普通で平凡だと?ああ、何ということだ。いったい彼はどうしてそんな思い違いをしているのだろうね」
ユウキの見る目の無さを嘆いてみせたが、振り返ってみると自分も同じような間違いをしていることに思い至り、内心赤面した。
眼鏡という単純な邪魔物があっただけで、宝石をくだらないものだと思いこんでしまい、本当の価値を見抜けなかったのだから。
ユウキを狙った連中の方がよほど目がよかったのかと思い至って、更に落ち込んだ。自分の見る目には絶対の自信を持っていたというのに。
いや、これは僕の思い込みのせいに違いない。
ケイが素晴らしい恋人を得られたなどと思いたくないという、嫉妬ゆえの。
「ここに眠っている悠季の魅力など、本来の半分にも満たないものですよ」
ケイが平然とした顔で言った。
まさか。
今見ている姿以上の魅力を、この彼が秘めていると?
自分の見る目の無さに打ちのめされていたが、そこまで見る目がないとは思えない。
「確かにパーティーではユウキと正面切って会って話したわけではないがね。だからといって、起きた時の彼はもっと違う魅力を持っているというのかい?」
「彼はバイオリニストなのです。悠季の演奏を聞いた事がないのですから、あなたに彼の魅力を語る資格はありませんよ。それでは失礼します」
そう言いきると、ケイはユウキを抱き上げて、待たせていたらしいタクシーに乗り込み、ホテルへと引き上げていった。
そのあまりに平然とした態度にいささか腹を立てた僕は、一つばかりささいな嫌がらせを言ってみた。
ユウキが寝込んでしまったのは、あのパーティーで飲まされたカクテルの中に何か入っていたせいかもしれないと。
僕はカクテルが作られた現場を見ていたわけではないから全くあり得ないことではあるが、ユウキの様子を見ている限りではそこまで悪質なものを飲まされたわけではないと思う。
しかし、僕の一言はケイをぎょっとさせたらしい。
一気に顔色を変えたから、少々溜飲が下がった。
まあ、医者に見せた方がいいのは確かだし、僕の言った事はまったくの嘘ではないから、まあこれくらいは許されるだろう
それにしても、だ。
ケイの言った事は聞き捨てならないことだった。
僕の眼は節穴であり、審美眼はないとでも言うつもりなのか、ケイ?
それでは、君が言うバイオリニストとしての彼、本来のユウキが持っているという魅力が加わえられた姿と音楽を、ぜひとも聞かせて貰う事にしよう。
これでも僕の耳はクラシックに対してはかなりうるさい。ユウキは本当に満足させてくれるのだろうか?
せいぜいがんばって聴かせてもらうことにしよう。
さほど有名なバイオリニストのものではないコンサートというのは、当日券が残っているものだ。
チケットガイドで聞いたところ、明後日開かれる彼のソロ・コンサートに席があると知って購入した。車で行ける距離の街だった。
チケット売り場の女性は、最近注目されているバイオリニストだと勧めてくれたが、さてどうだろうか。
会場に入ると、周囲の客たちは彼を目当てに来たというより、新人の批評しようという古くからのクラシックファンや暇があったので聞きに来たという様子の気楽な客がほとんどのようだった。
照明が落とされ、バイオリニストであるユウキが伴奏者と共に現れた。期待と礼儀が半々といったあまり熱のこもらない拍手があがり、彼の演奏が始まった。